教授の部屋Professor's room

【はじめに】[2024年2月記す]

 猛威を振るった新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)を経て私自身が気付いたのは、社会の変化がおきると、いつでも出来ると漠然と思っていたことが、突然に出来なくなるということでした。 私は私達の祖先が歩んできた日本の歴史に興味があるので、学術講演に招待された際にご当地の小さな史跡を訪ねることが楽しみでした。COVID-19が最初に報告されてからの4年間は、それが叶わなくなったわけです。

 世界はウィズ・コロナ時代となり、感染リスクの低減に配慮しながらも対面での会議も増えてきました。それで、私が訪問した史跡などを(仕事が忙しくて時間に余裕が無いので少しずつですが)個人的な観点で紹介してみたいと思います。
【義仲寺】[2024年2月]

義仲寺門
 2024年2月は、近畿地方(滋賀、京都、大阪)への出張が重なりました。滋賀県(近江の国)の史跡を紹介します。近江(おうみ)は淡海(あわうみ)の音変化とされます。

 義仲寺(ぎちゅうじ)は滋賀県大津市にある、朝日将軍木曽義仲公の墓所です。この地で源義経らに討たれた義仲公を、側室の巴御前が供養したことに由来しています。境内には義仲公の墓とともに巴御前の塚があり、さらに義仲公の墓の隣に江戸時代の大俳人、松尾芭蕉の墓があります。松尾芭蕉が義仲公に思いをよせた俳句があります。

「義仲の 寝覚の山 月悲し」
「木曽の情 雪や生ぬく 春の草」

 義仲公に惚れ込んだ松尾芭蕉は、「骸は木曽塚に送るべし」と門人に遺言しました。義仲寺境内には、芭蕉の辞世の句である、「旅に病んで 夢は枯野を かけ回る」の句碑もあります。

 芥川龍之介は「木曽義仲論」で、「彼は彼が熱望せる功名よりも、更に深く彼の臣下を愛せし也。」、「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。」と記述しています。義仲公は失敗続きで不幸な人生を過ごしたが、純粋で部下思いの人格者、そして熱情的な好漢であったという評価です。

 芭蕉も芥川龍之介も、私を含む多くの現代人も、無骨ながらも情と義侠心に溢れた義仲公に人間的な魅力を感じ、敬愛の情を抱くのでしょう。

義仲公墓_芭蕉翁墓_巴塚
【西教寺】[2024年2月]

明智光秀一族の墓
 西教寺は滋賀県大津市坂本にある天台真盛宗の総本山です。本能寺の変で主君を滅ぼしたため大悪人とされる明智光秀公ですが、領国では善政を敷き、丹波では御霊となった光秀公の為に大祭がおこなわれるなど、領民から慕われた名君でした。光秀公は比叡山焼き討ちで焼失した西教寺の復興に尽力しており、境内には明智一族の墓と、妻熙子(ひろこ)の墓があります。ここには、明智軍記をもとにした明智光秀公辞世句の石碑も建立されています。

明智光秀公辞世句
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかしこれは二つに非ず、実は一つの門である。即ち、順境も逆境も実は一つで、窮極のところ、人間の心の源に達する大道である。而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ。
(西教寺解説板より)

芭蕉の句「月さびよ明智が妻の咄しせむ」
「月さびよ明智が妻の咄しせむ」
 こちらは松尾芭蕉の句です。明智光秀公が貧しかった頃、妻熙子は夫のために長い黒髪を売って得た資金で連歌会を営み、夫の面目を保った逸話を念頭に置いた句です。

 明智光秀公の死から18年後の1600年、三女の細川ガラシャ(明智玉.細川忠興公正室)は、石田三成公の人質となることを拒み死を選びます。細川ガラシャの辞世の歌、
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
花は散るときを知っているからこそ花として美しい。人間もそうである。散るその時をわきまえてこそ美しい。哀しくも気品に溢れる美しい歌で、日本古来の死生観を反映しています。

 最近の日本では、政党や企業経営者から身近な組織に至るまで、退くべき指導者が恋々と地位にしがみついて、後進に道を譲るどころか執念深く叩きつぶしてしまい世代交代がおきないため、組織が硬直化・老人化して腐敗する。そんな老害が問題になっています。「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり」― 後藤新平公の言葉を引用するまでもなく下下の行為ですが、権力欲に取り付かれた人間達に取り憑かれてしまった没落組織は、劣化日本の象徴とも言えましょう。

 さて、明智光秀公の家紋は桔梗紋です。近代日本の幕開けに大きく貢献した英雄、坂本龍馬公の家紋は(組合角に)桔梗紋で明智家に由縁があり、名字の坂本は明智光秀公の坂本城に由来する、という伝承があります。その坂本城、最期の城将は明智左馬助(さまのすけ)秀満(光春)公で、「明智光秀公秘蔵の名器は、私人の物でなく天下の物、世の宝ゆえ、火中に滅するは国の損失」として、落城を前にして敵方の堀秀政公に預けたといいます。明智秀満公は、戦国アクションゲーム「鬼武者(カプコン)」のモデルにもなったように、戦国武将の美学を具現化した天晴れな武士(もののふ)として敵方からも称賛されました。真偽は別にして、坂本龍馬が明智一族の子孫であったとする伝承は興味深いストーリーです。
【穴太衆積みの石垣】[2024年2月]

 穴太衆(あのうしゅう)が得意とした野面積(のづらづみ)は「穴太衆積み」と呼ばれ、外観は一見乱雑に見えますが、強度と排水性に優れます。最近の実証実験では、自然石を巧みに組み合わせた穴太衆積みが、コンクリートブロック壁よりも高い強度を有することが示されました。城の防御力が籠城戦の成否(生死)に直結する戦国時代において、高い職能技術を有する穴太衆は多くの有力大名に召し抱えられ、安土城や大阪城など、数多くの城の石垣造りに携わったといいます。穴太ノ里(あのうのさと)とも呼ばれる滋賀県大津市坂本穴太周辺には、現在も野面積の石垣が数多く残り、美しい町の景観を作り出しています。

 第166回直木賞を受賞した「塞王の楯」(今村翔吾著・集英社)は、どんな攻めをも跳ね返す石垣(最強の楯)造りの穴太衆と、どんな守りをも打ち破る鉄砲(〜大筒)を製造する国友衆の対決を描いた時代小説ですが、関ヶ原の前哨戦となった籠城戦の舞台となったのが大津城です。関ヶ原の戦いの翌年に大津城は廃城となりましたが、大津城の五層四重の天守は、彦根城の天守として三重三階に縮小して移築され、姫路城、松本城、犬山城そして松江城と並ぶ国宝天守として、現在に至る 400年以上、保存されています。石垣の石材もまた、彦根城で再利用されているとのことです。

穴太衆積みの石垣
【特別展 古代メキシコ ― マヤ、アステカ、テオティワカン】[2024年2月]

 2024年5月6日まで、大阪の国立国際美術館で古代メキシコ展が開催されています。「球技をする人の土偶」、「死のディスク石彫」、「赤の女王のマスク・冠・首飾り」など、生き生きと躍動する古代メキシコ文明の息吹を実感させる多くの展示に感銘を受けましたが、特に印象深かったのは「嵐の神の壁画(テオティワカン文明)」と「鷲の戦士像(アステカ文明)」でした。

 
嵐の神の壁画
「嵐の神の壁画」に描かれている嵐の神(もしくは雨の神)は、左手にお香の袋、右手にはトウモロコシをもっていて、水の恵みが食料をもたらすという祈りを込めた図案だそうですが、とても1500年以上前に描かれたものとは思えない美しさです。映画ナウシカのオープニングでは、世界が腐海に飲まれるまでの過去の歴史が、絵巻形式のタペストリーとして示されます。恵みの神と破壊の神という大きな違いはありますが、「嵐の神の壁画」が、ナウシカのタペストリーに描かれた巨神兵のデザインにインスピレーションを与えたのだろうか、などと想像したり、芸術の相互作用効果にわくわくします。

 
鷲の戦士像とロボット兵
「鷲の戦士像」は高さ170 cmのヒト等身大の土製の像で、「君たちはどう生きるか」のサギ男に似ているとの意見もありますが、土製ゆえの色彩と、そこから想像される触感、そして両腕に取り付けられた尖った羽根から、私はラピュタに登場するロボット兵を連想しました。「鷲の戦士像」が英雄的な死を遂げ、鳥に変身した戦士の像を表現したのだとすれば、空想の世界でロボット兵と同様、空を翔ぶことも出来そうです。


 アステカには、かつて追放された「白い肌をもつ」ケツァルコアトル神が、一の葦の年(西暦1519年に相当)にアステカに戻ってきて、支配権を回復すると信じられていました。この神話が、スペインによるアステカ征服を容易にしたといいます。それにしても、エルナン・コルテス率いる 500名の軍勢がメキシコに上陸(西暦1519年)した時点で約2500万人あった原住民人口は 、85年後に約100万人まで激減します。現地で「ココリツリ」と呼ばれた謎の疫病は、欧州から持ち込まれた天然痘、麻疹、ペスト(当時の致死率 80-90%)などであり、これらの感染症の免疫を持たない先住民たちは次々と命を落としたといいます。

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