植物プランクトンと海水温度計
<月刊海洋/号外,12, 162-165, 1997> 池原実1・大河内直彦2・河村公隆3 1 国立科学博物館地学研究部 特別研究生 海洋植物プランクトンの一種である円石藻は長鎖アルケノンを生合成するが,それらの不飽和度(Uk37)は,円石藻が生育した水環境の水温情報を保持している.堆積物中のアルケノンを解析することによって,過去の海洋表層の水温変動を復元することが可能である. 1.はじめに 水産科学と地球科学の接点を整理する作業の第一歩として,これまでの研究の中で一方が他方に貢献した研究例について挙げてみる.まず,水産科学に対して地球科学(ここでは地質科学という意味で用いる)が貢献した一例として,過去の地球環境のレコーダーである深海底もしくは沿岸の堆積物の解析から,ENSOなどの地球規模で起こる環境変動やマイワシの存在量に関する歴史的な変遷を解明したことが挙げられる(例えば,Soutar and Isaacs, 1974).それらの変動の周期性の解析は,水産資源量の将来予測などに有用な情報を提供してきた. 2.円石藻が生合成するアルケノン キャピラリーガスクロマトグラフが普及し始めた直後の1970年代後半,海底堆積物中に含まれている有機化合物を測定していたオランダのデルフト工科大のグループが,高沸点の脂質化合物を報告した(Boon et al., 1978).間もなくこれらの化合物が,炭素数37-39で二重結合を8, 15, 22, 29位に2から4個もつ(2-4不飽和)メチルおよびエチルケトン(アルケノンと総称される)であることが明らかにされた(図1:de Leeuw et al., 1980).これとほぼ時を同じくして,そのアルケノンが円石藻の一種であるEmiliania huxleyi(図2)によって生合成されることが,ブリストール大学のグループによって見出された(Volkman et al., 1980).E. huxleyiは,外洋域における主要な植物プランクトンの一種であるので,深海底堆積物中にこの化合物群が含まれていても何の不思議もなかったわけである.さらに,生合成される炭素数37の2不飽和と3不飽和のアルケノンの比(不飽和度)は,生育温度に依存して変化することが発見された(図3;Marlowe et al., 1984).すなわち,水温のより高い環境中で生合成されるアルケノンは,より融点の高い2不飽和の相対濃度が高く,より低温では3不飽和の相対濃度がより高くなる.その炭素数37のアルケノンに関する不飽和度は,以下に示す式で定義されるUk37'という指標によって示される(Brassell et al., 1986). Uk37' = 0.034 ×T (℃) + 0.039 Uk37' = 0および1の時の水温はそれぞれ-1.1度と28.3度を示し,現在の海洋でみられる表層水温の範囲とほぼ一致していることは非常に興味深い.一般に生体膜(細胞膜や核膜など)を構成する脂質化合物は,環境温度の変化に対してその組成比を変えることによって膜の流動性を一定に保つことが知られている(Quinn et al., 1981; Harwood and Russell, 1984).アルケノンも円石藻の生体膜の成分であり,このような温度依存性をもっているものと推測されている(Marlowe et al., 1984). 3.アルケノンを地質学的研究に応用する 通常の不飽和脂肪酸においては,二重結合はシス体であるが,アルケノンに含まれている二重結合はトランスであるため分子が非常に長いものになっている.さらに,二重結合も7炭素おきに存在するという通常では見られない構造を有している(Marlowe et al., 1984;図1を参照).その結果,アルケノンは脂肪酸などに比べバクテリアによる酸化分解を受けにくく,堆積物中で保存されやすいため,地質学的研究に用いるにあたって好都合な化合物となっている.とはいえ,酸化的な底層水に覆われている通常の深海底堆積物の場合では,その直上の海洋表層に生息する円石藻によって生産されるアルケノンの85%以上は,water column中もしくは堆積物中で酸化分解している(Prahl et al., 1989).しかしながら,2不飽和と3不飽和のアルケノンの分解速度はほぼ等しいので,2つの化合物の量比としてのUk37'値は,堆積後の変質や分解に関わらず一定に保たれることが知られている.また,動物プランクトンによって補食された際の消化過程でも変化しない(Volkman et al., 1980; Sikes et al., 1991).したがって,生体の死後の様々な変質や分解に関わらず,アルケノンを用いた古水温の推定は有効である.このアルケノンの不飽和度を用いた古水温の推定方法は,最近10年の間に古海洋学の分野に大きく普及し,現在では古水温を求める最も有力な方法として広く使われている. 4.おわりに 本稿では,水産科学と地球科学との間を橋渡しするための1つのヒントとして,海洋生物がつくり出す有機化合物が地球科学的な研究に役立つ一例を示した.現在,地球化学者の間では,どのような天然物有機化合物が環境の有効な指標となり得るのかを検索し,また,それらが堆積物という媒体の中にどのように記録されるのかについて本格的な仕事が始まりつつある.また,個々の生物種もしくは生物群にどのような有機化合物がどの程度含まれているかという情報は,過去の地球環境を解明する手法の開発の基礎を与えるものと期待される.これらは天然物有機化学や水産生物化学と呼ばれる分野の協力や知識なしでは行えないものであろう.こういった研究を契機にして,両者がお互いに密接に協力しあえる研究体制,あるいは情報交換できる場が作り出されるならば,今後の水産科学および海洋科学・地球科学をまたぐ学際的な研究に発展していくであろう. 参考文献 Boon J. J., van der Meer, F. W., Schuyl, P. J. W., de Leeuw, J. W., Schenck, P. A., and Burlingame, A. L. (1978) : Initial Reports DSDP, vols. 38, 39, 40 and 41, 627-637. Brassell, S. C., Eglinton, G., Marlowe, I. T., Pflaumann, U., and Sarnthein, M. (1986) : Nature, 320, 129-133. CLIMAP Project Members (1976) : Science, 191, 1131-1137. de Leeuw, J. W., van der Meer, F. W., and Rijpstra, W. I. C. (1980) : in Advances in Organic Geochemistry 1979 (eds. A. G. Douglas and J. R. Maxwell), pp. 211-217. Harwood, J. L., and Russell, N. J. (1984) : George Allen & Unwin. Ikehara, M., Kawamura, K., Ohkouchi, N., Kimoto, K., Murayama, M., Nakamura, T., Oba, T., and Taira, A. (1997) : Geophys. Res. Lett., 24, 679-682. 石渡良志・石丸圭・ 奈良岡浩 (1994) : 月刊海洋, 26, 420-424. Marlowe, I. T., Green, J. C., Neal, A. C., Brassell, S. C., Eglinton, G., and Course, P. A. (1984) : Br. Phycol. J., 19, 203-216. Ohkouchi, N., Kawamura, K., Nakamura, T., and Taira, A. (1994) : Geophys. Res. Lett., 21, 2207-2210. Ohkouchi, N., Kawamura, K., and Taira, A. (1997) : Paleoceanography, 12, in press. Prahl, F. G., Muehlhausen, L. A., and Zahnle, D. L. (1988) : Geochim. Cosmochim. Acta, 52, 2303-2310. Prahl, F. G., De Lange, G. J., Lyle, M., and Sparrow, M. A. (1989) : Nature, 341, 434-437. Quinn, P. J. (1981) Prog. Biophys. Molec. Biol., 38, 1-104. Soutar, A. and Isaacs, J. D. (1974) : Fishery Bulletin, 72, 257-273. Volkman, J. K., Eglinton, G., Corner, E. D. S., Sargent, J. R. (1980) : in Advances in Organic Geochemistry 1979 (eds. A. G. Douglas and J. R. Maxwell), pp. 219-227. |