南極大陸上の巨大氷床とその周辺に広がる南大洋は,気候システム内において地球を冷却する働きをしており,南極寒冷圏(Antarctic Cryosphere)とも呼ばれている.南極寒冷圏を構成するサブシステムとしては,南極氷床の他,南大洋に広がる海氷や氷山,低温の表層水,活発な生物生産,そして表層海流系としての南極環流などがある.これらのサブシステムは相互に連動しながら新生代を通じた地球の気候進化(特に寒冷化)に大きく寄与してきている.地質時代において,南極氷床や海氷がグローバルな気候変動システム内でどのようなふるまいをしてきたのかを明らかにすることは,南極寒冷圏の特徴を理解する上で必要不可欠である.また,南大洋における海氷分布域や極前線の位置は,第四紀後期の氷期-間氷期スケール,あるいは,さらに短い時間スケールでの海洋環境変動に対応して変化していた可能性がある(Ikehara et al., 1997, Ikehara et al., 2000, 池原,2001).一方,現在進行中だと考えられている人為起源の地球温暖化の象徴的な現象として,南極氷床(棚氷)の融解(崩壊)などが注目されてきており,ここ数年間における実際の調査報告やマスコミ報道も多い.つまり,気候変動の影響が最初に顕在化する場所として南極海は極めて重要である.
これまで国立極地研究所の地学グループによる南極大陸リュツォホルム湾周辺の隆起海浜堆積物の解析から,東南極氷床の最大拡大期がおよそ4万年前以前に生じていた可能性が指摘されてきた(三浦ほか, 2002).これは地球規模で最も寒冷化が進行した約2万年前(LGM)には東南極氷床はむしろ安定しており,それよりも古い時代に東南極氷床が拡大していたことを示唆する.また,近年の南大洋の海洋コア解析や南極氷床コアの解析からも,南大洋の古水温がLGMよりも約4万年前に最も寒冷化していた可能性が指摘されている(例えば,Sachs et al., 2001).さらに,南半球高緯度地域の水温や気温などの変動がグローバルな気候変動に先行して変化している可能性が指摘されてきており,Bipolar Seesaw仮説(Broecker, 1988)として,気候変動の発現・伝播プロセスを解明するキー現象として注目されている.しかしながら,地質時代における東南極氷床の挙動や南大洋の古水温変動などは,定量的解析に用いることが出来る海洋コア試料の絶対的不足から,その詳細はほとんどわかっていないのが現状である.
過去の氷床崩壊(融解)イベントを堆積物中から検出する方法として,漂流岩屑(IRD)の定量的解析が一般的に用いられてきた.一方で申請者は,科研費萌芽研究(平成15-17年度,研究課題「バイオマーカー水素同位体比を用いた南極氷床融解イベントの検出」)において,南大洋表層堆積物中に保存されている植物プランクトン由来の有機化合物(バイオマーカー)の水素同位体比(dD)の緯度分布を明らかにし,それらと現在の氷山(海氷)分布が対応していることを明らかにし,バイオマーカー水素同位体比が地質時代の氷床融解現象を復元する代替指標(プロキシー)として有用であることを実証した.これは,大気~海洋系の水循環の結果として南極氷床の氷の水素同位体比(約-300‰)が海水(約0‰)よりも極めて軽いことを利用したものであり,氷床融解水の影響下で生産された有機物には軽い水素同位体比が記録されていることとなる.このような古海洋変動プロキシーの新開発・進展に伴って,それらをコア試料に応用し,過去の南極寒冷圏の時空間変動を詳細に復元し,熱帯〜亜熱帯域,および,北半球高緯度域における同様の古気候・古海洋変動との同期性,変化のタイミングのずれ,相互作用などを明らかにし,気候変動の発生・伝播メカニズムを解明することが,近未来の気候変動予測への実証記録の提示として非常に重要である.
これら早急に対応すべき研究課題を実証的に解決するために,研究代表者(池原)は学術調査船白鳳丸による調査航海の提案を行い,東京大学海洋研究所の共同利用研究課題として新たに採択され,国際極年(IPY)に当たる平成19年度後半に海洋地質学的調査を目的としたシップタイムを確保した.本研究課題の主な観測データおよび試料は,その航海で実施する地形・地層探査とピストンコア採取,有機懸濁物の採集によるものである.
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