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回顧録「魚類学のメッカを目指して」

岡村 收 (1996年3月:定年退官記念誌より)

 生涯の仕事につく端緒には,二つの両極があるようである.幼少期からの深い意識がいかされる場合と,ひょっとした機会が自然に生きる場合とである.私の場合にはこの二つがないまぜになって魚類学の道に入ったように思われる.
 私の生地は,「生まれはどちらですか」と聞かれると,「高知県です」と答えるのがためらわれるほど,あくまでも愛媛県に近い高岡郡別府村(旧)(四国第3の大河,仁淀川上流域)である.私の生まれた岩屋川発電所は四国第2の水がめ,大渡ダムに水没する予定であったが,記念碑的発電所として移築され,現在でも湛水面上にその姿を見ることができる.以後成長するにつれて中流域,河口域そして海辺の街へと移転した.つまり,幼少期から河川に海に,そして魚に馴染んでいたのである.
 いっぽう,戦後の困窮期に医学部受験の夢を絶たれた私は大学2年の夏には早くも挫折,退学を決意して疎開先の高岡郡大野見村へと帰郷した.晴耕雨読の半年を経て悟ったことは,現在の生活は現実逃避でしかないということであった.翌春には復学を決意,逃避への罰として1年間での教養課程の全単位修得を自分に課した.苦しい修業期間を過ぎてみると,医学への妄執は薄れ,目の前に著名な魚類学者,故蒲原稔治先生との出会いがあったのである.

 高知大学生物学専攻時代

 復学してみると,不況時には就職にあくせくするよりもいっそう自分の好きな道を生かそう,という学生気質は今も昔も変わらず,理学科卒論有資格者45名中生物学専攻志望者は何と20数名にのぼる有り様であった.結局,このうち15名が3回生春から専攻所属を認められ,魚類学を卒業論文分野に選んだのは,蒲原恭子,野田忠宏,山下弘文と私の4名であった.テーマはスズメダイ類,浦戸湾の魚類相,ギンポ類,ソコダラ類であった.学部の卒論レベルとはいえ,その全てが単独又は蒲原先生との共著の形で論文として後に発表された.
 蒲原先生の教育方針は徹底した放任主義に見えた.ソコダラ類の研究に行き詰まり,資料をもって伺っても,資料に基づく直接の指導を受けた記憶は皆無である.帰ってくる返事は決まって「ソコダラにかけては "おまん(あんた)" が日本で一番じゃろう?」である.これにはまったく辟易するのみで,すごすごと退散するほかはなかった.今となってみると,「世界で一番じゃろう」と言われなかったのが意味深い.いっぽうで,文献の配置をすべて諳んじておられる先生は適切な文献を即刻取り出して下さった.要するに,「自分で文献を読みこなし,自分で考えろ」の主義であったようである.同じ頃,遠くの新潟の日本海区水産研究所から,蒲原先生に魚類学の分類について教えを乞われた沖山宗雄さん(現東京大学教授)に,教示されたその内容を伺ってみたいものである.
 当時の高知大学は学部で終了であるから,魚類学を学んでも卒業後の進路は教職,企業,さらなる進学と様々に道は分かれた.しかし,学問のレベルはさておき,魚類学への情熱や様々の企画力は高知大学時代に培われたことは疑いようがない.隣りの地学の先生に「ウルサイッ」と怒鳴りこまれた喧喧諤諤の論議,その論議を踏まえて植物学の学生まで巻き込んだ採集旅行,夜が白むまで続いたミクロトームの単調音,競争で読破を試みた研究室の全洋書,高知県産約1,200種の全魚種を手焼きした写真図鑑作りなど,思い出は盡きない.なかでも,早朝4時に起床,往復30km強を自転車で走破したミマセ魚市場通いは忘れ得ぬ思い出である.当時20隻の沖合底曳船を所有していたミマセ,さらに足をのばせば10隻を所有する浦戸魚市場があり,毎朝100種以上の底魚を採集することが可能であった.後に,2年後輩として尼岡邦夫さん(現北海道大学教授)が生物学専攻に所属するに及び,このミマセ通いは楽しくも苛烈な競争?となった.ミマセ魚市場での毎朝は,魚とは?種とは?種の違いとは?と様々の疑問を生み,自分なりの解答を引き出す絶好の自然学習の場であった.この訓練が後の我々に,種を直感的に識別する能力を与えて呉れたのである.蒲原先生以後でも,このミマセ魚市場での船主,漁夫,せり人,仲買人,魚をさばく小母さん達との交流も,後の全国にまたがる漁港での採集旅行の下地として大いに役立つこととなった.しかも,1965(昭和40)年再度の復学後,この人脈が復活し,高知大学の魚類コレクションが飛躍的に発展する基盤ともなった.
 要するに,高知大学での魚類学の勉強は,自然から自由奔放に学ぶ情熱と人を知ることであったと思う.

 京都大学水産学科時代

 京都大学に水産学科が設けられたのは,新制大学とほぼ時を同じくする1947(昭和22)年のことである.当時,魚類の分類学を目指して大学院に進むには,東京大学理学部動物学科か京都大学農学部水産学科しかなかった.東大であれば同じ理学系であるため現役受験が可能であり,京大であれば独学による水産学の修得のために専攻生1カ年の残留を要した.蒲原先生は4回生の夏,ハゼ類の研究で有名であった東京大学の故富山一郎先生に推薦して下さったが,迷うことなく京大への道を選んだ.その理由は,東大で師事できるのは富山先生唯1人であり,しかも三崎臨海実験所(富山先生)と本学(私)と離ればなれとなるが,京大であれば故松原喜代松先生に直接かつ日常的に師事できるからである.また,当時出版された松原先生の不朽の名著「魚類の形態と検索」に深い感銘を受け,当時の日本魚類学の弱点であった内部形態を重視した系統分類学を志し,既に手紙で教えを乞い,先生の高知大学農学部における集中講義時に魚類学や京都大学の研究状況をお伺いしてもいたからである.
 京都大学を選んだもう一つの大きな理由がある.当時の水産学科第4(生物学)講座には,松原先生の他に落合 明講師(高知大学名誉教授・前日本魚類学会会長)と三谷文夫助手(現福井県立大学教授)が居られ,さらに院生として岩井 保(京都大学名誉教授・現近畿大学教授),浅野博利(現近畿大学教授),赤崎正人(前宮崎大学教授)の3人が在籍していたのである.これらの錚々たるスタッフから毎日得られる耳学問に私は大きな期待を寄せた.
 水産学専攻に入学してみると,松原先生は「魚類の形態と検索」に引き続き,「魚類学 上・下」,「新日本動物図鑑」,「動物系統分類学」などの執筆に明け暮れされ,ときに飯盒炊飯で教授室に泊まられることもある状況であった.思うに,40代までに蓄えられた業績と知識を一気に吐露されようとしている時期であった.その後の姿に凄まじいまでの執念を感じたものである.いっぽう,上記のスタッフによる研究活動は活発かつ着実に進行していた.シタビラメ類,ブリ,アユ,アナゴ類,タイ類に関する系統分類,漁業生物,形態,生理・生態学的研究と,対象のみならず研究分野も多岐にわたっていた.そこにソコダラ類をひっさげて参加したのである.勿論,耳学問の成果も期待の何倍も得られたが,そのためには高知大学式の喧喧諤諤のディスカッションを要したので,先輩達のみならず周辺講座の方々の顰蹙を買ったようである.
 大学院5年と助手2年,計7年間の京都大学時代に,後に続いた人達として尼岡邦夫(前出),畦田正格(現水産庁養殖研究所所長),中村 泉(現京都大学助教授),岸田周三(現水産庁西海区水産研究所部長),山根伸一(現宮崎大学講師)の諸氏が挙げられる.彼等によってヒラメ類やカジキ・マグロ類の系統分類学の分野に,そしてマアジの生態,コバンザメ類の分類と吸盤の構造,ウミタナゴ類の分娩機構の解明に大きな成果が得られた.
 京都大学時代は,魚類学に関する幅広い基盤の形成と,高度の専門知識の修得の時期であった.なかでも,綿密な比較解剖に基づく系統論の組み立ては当時の高知大学には無いものであった.いっぽう,組織学的手法を修得していた私は,系統分類学への生理・生化学的手法の導入に多大の興味を持っていた.組織移植率や抗原抗体反応を用いた個体群や種に関する国外の論文を,しきりにセミナーで紹介したのはこの頃のことである.とりわけ,蛋白組成の電気泳動法による解析は,個体群や種を解析する客観的手法として心に残った.しかし,研究機器も文教予算も大変乏しかった当時,関連機器の入手は困難で,この手法が可能となるには当時学部生であった谷口順彦氏(現高知大学教授)の世代まで待たねばならなかった.

 再び高知大学生物学科時代

 1965(昭和40)年,高知大学生物学専攻に着任すると,京都大学とはうって変わって独りぼっちの研究陣容となった.しかし,翌年の生物学専攻の存亡の危機を乗り越えるとともに,1人1分野が講座に,専攻は学科に,理学科は理学部に,さらに大学院設置の光明が見え始めた.このとき決心したのは,構想が実現するまでは研究遺産(文献と標本)の完璧な継承と発展を目指すこと,生物学の3大基礎分野である形態・生理・生態学的手法を踏まえた系統分類学を確立すること,この構想に基づいた人事を行うこと,の三つであった.
 研究遺産の継承と発展:蒲原先生の文献が文部省買い上げにより "Papers on fishes" として継承されたことは前述した.問題は当時19,000点に過ぎなかった標本である.スズメダイ類やブダイ類などの珊瑚礁性魚類と一部の深海性魚類を除くと,各分類群の種数が少なく,また,産地も土佐湾から沖縄の範囲に限られていた.これまでは,種の識別に重点を置くアルファー分類学でさえも局地的にしか行えず,ましてや世界産の属と種を要する系統分類学的研究は不可能であった.
 標本収集の端緒は1967(昭和42)年の沖合底曳船のチャーターによる土佐湾の新漁場開発であった.高知県・水産庁南西海区水産研究所・高知大学の3者合同による調査で,目的はボタンエビの新漁場発見であったが,通常の操業水深より深い400〜600mであったため,多数の貴重な標本が得られた.土佐湾に関しては,以後も高知大学の豊旗丸(20トン),南西海区水産研究所のこたか丸(旧40トン,現60トン),水産庁の開洋丸(3,000トン)東京大学海洋研究所の淡青丸(旧300トン,現400トン)や旧白鳳丸(3,000トン)による調査が水深15〜4,000mにわたって恒常的に又不定期に行われ,多数の未記載種や初記録種が得られている.
 日本周辺海域の標本に関しては,10回を超える淡青丸等の調査,北転船を利用しての3カ年にわたる九州-パラオ海嶺調査や沖縄舟状海盆周辺海域調査,白鳳丸(新4,000トン)による日本海溝調査等によって充実した.さらに,水産庁東海区水産研究所に保管されていた蒼洋丸の20年間にわたる調査標本も,1972年に一括高知大学へ移管された.
 国外調査に手を染めたのは1972(昭和47)年のことである.旧白鳳丸による105日間の「東南アジア海域の生物群集に関する調査」がそれで,以後2回の同海域調査を合わせてインド・太平洋海域の標本が集積した.また,土佐湾に始まる水産庁との連携プレーの成果として,開洋丸や深海丸等による天皇海山,ブラジル沖,ニュージーランド周辺海域等の標本も入手できた.さらには,政府間協定による調査として,南アフリカ連邦沖とグリーンランド周辺海域の調査が挙げられる.とくに後者は9年間にわたり,9名のべ10名の院生や研究生を補助調査員として派遣した.その膨大な標本に基づく成果は,彼等と共に「グリーンランド周辺海域の水族」として昨春出版されたばかりである.
 淡水魚に関する海外調査も2度にわたって行われた.1969(昭和44)年には「高知大学メコン水系学術調査研究会」を組織し,同年に一次隊をメコン水系に,1972年には二次隊をメナム水系に派遣し,数千に達する淡水魚類標本を収集した.なお,これらの調査は当時高知商工会議所会頭であった故西山利平氏や四国銀行頭取であった吉村真一氏らの盡力により,地元財界から集められた浄財により行われたものである.
 このようにして集積された魚類標本は現在30万点に達しているとみられる.これらの標本は高知大学のスタッフや学生の研究資料として用いられるばかりでなく,広く国内外に門戸を開放し,求めに応じて貸与,ときには分与され,世界の魚類学の発展に大きく寄与しているのである.
 研究体制:海洋生物学講座は教授,助教授,助手の3名編成予定で1977(昭和52)年に発足したが,町田吉彦氏を助手(現教授)として迎えたのは翌78年のことであった.教育・研究の両面で特色が出せるように,魚類の分類形態と生態学的研究を当面2本の柱としたのである.しかし,同氏が講師から助教授へと昇任した後,助手採用まで通算12年を要した.生物学科編成のため,助手のポストを他講座へ貸与せざるを得なかったからである.1989(平成元)年に,分岐分類学の手法をマスターした佐々木邦夫氏を助手(現助教授)として迎えるに及び,ようやく講座編成が終了した.そのいっぽうで,光学機器をはじめとする形態学・組織学関係の備品類,STDやビームトロールをはじめとする生態学関係の調査器具がほぼ整い,数年前には電気泳動関係の装置も完備した.また,現在では学科としてDNA分析装置も所有している.つまり,スタッフの誰かが手法を修得しさえすれば,形態・生理・生態学的資料に基づく系統分類学が可能な研究環境が整ったのである.

 後掲の研究題目リスト(*卒論・修論題目を参照)に示されているように,在任31年間に魚類学の分野で卒業研究を行った者87名,専攻生4名である.また,修士課程では魚類学分野12名,海洋植物学分野9名,動物整理学分野3名であった.後の2分野については,修士論文の主査をつとめたものであり,日常的に交流のあった人も多いが,以下には魚類学の分野について述べる.
 分類形態学分野:この分野で魚類を研究した者は,学部と大学院を通じて延べ69名に達する.初期の分類群は潮間帯から河口域で簡単に採集できるミミズハゼ類やミマセで手っ取り早く入手できるシタビラメ科・トラギス科・アシロ科などであった.しかし,標本が整備されるにつれて,ホカケトラギス科・アンコウ科・チゴダラ科・ソコダラ科・ホラアナゴ科など,より深海性の分類群へと移行し,ホカケトラギス科のように標本の充実に伴って2代目から3代目へと,研究が継承された分類群も多い.また,取り扱う標本の範囲も初期の土佐湾から北西太平洋産,西部太平洋産,インド・太平洋産,遂には世界産と拡大していることや,後年になるほど「〜の比較形態学的研究」,つまり系統分類学的研究が増えていることも特徴である.
 生態学分野:この分野では個体群を研究した者33名,魚類群集を研究した者8名,計41名に達する.端緒は着任後5年目の1970年に始まる鏡川の淡水魚類調査であった.前任の蒲原先生があまり淡水魚を扱われなかったため,地元会社の要請を受けた形で調査が実施された.卒業研究も兼ねたため,この調査では学生共々河川調査法を修得し,後の数多い河川調査の基を築いた.その当時県下で最も清澄であった新荘川にフィールドを移し,ここでチチブ(現在ヌマチチブ)・ボウズハゼ・ミミズハゼ・イドミミズハゼなどの生活史や社会的構造に関する研究が開始され現在に至っている.四国(日本?)で初めて流下性仔魚に関する調査研究が行われたのもこの新荘川である.
 海水魚の生態に関する調査研究を初めて行ったのは1972年,浦戸湾であった.高知県の委託による公害調査であり,後の「外洋港建設に係わる事前調査」にもつながった.この経験が生きて卒業研究に海水魚の生態分野を取り入れたのが,1977〜78年にわたる浦の内湾調査であった.その後,海水魚の生態に関する研究は,豊旗丸を使用しての土佐湾中央部でのビームトロール調査へと移行した.10年間,水深15〜190m(10水深層)にわたる毎月の調査から,多数の新種や初記録種などの分類学的資料が得られたばかりでなく,底生性魚類の群集構造や優占種の変動を解明し,ヒメコダイ・ヒメジ・ネズッポ科の数種・ササウシノシタ類・チカメダルマなどの生活史を明らかにすることができた.
 生理・生化学分野:この分野で最初に手掛けたのは,環境水の塩分濃度と腎構造に関する組織学的研究であった.マハゼに野外標本を用いて塩分濃度の薄い環境水に棲む個体ほど糸球体が増加することをつきとめ,翌年には水槽実験で個々の糸球体の体積増も生じて,過剰水分の排出が行われることを明らかにした.また,トラギス科魚類の性転換に関する研究も2代にわたって行われた.電気泳動を用いた研究はカサゴとウッカリカサゴの関係をつきとめるために初めて適用された.その結果からも形態分析の結果からも,この2型は亜種レベルの分化に達していないと結論づけられた.同様の研究はチチブ属魚類についても行われたが公表するには到っていない.

 以上の卒業生・修了生の諸君と共に行った研究の多くは学会で口頭発表され,その後学会誌や論文や著書として共著の形で刊行されたが,未発表のものも数多く残されている.退職後は雑事を離れかつ雑念を払い,これらを論文化すること,つまり現役復帰を果たすことが私に残された責務である.


1992年,豊旗丸での土佐湾ビームトロール調査のある日のメンバー(漁労長を囲んで).

*本文は岡村收先生の了解を得て掲載しています.文中に登場する方の所属は1996年3月時点のものです.(遠藤広光)

2003/08/18


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