金太郎飴現象と闇鍋

 昭和40年代の先生方は幸せだった。「君たち、半年で書ける論
文など、そもそも価値がないんだよ」と教わった。まあ、なんと
なく怪しい、カリスマ性をおびた先生に限って、3年も4年も、
あるいはそれ以上も平気で論文を書かない。だが、忘れたころに
出る著作は確かにスケールが大きかった。

 今は時間をかけた仕事ができにくい。どこの大学も、自己点検・
自己評価に追われている。「いまさら」とは思うが、私は条件付き
で賛成である。専門が細分化すると、隣人の研究すら完璧に理解
できない。論文の質より数が基準になってしまう。分っていなが
ら数にこだわる姿勢は、自分でも情けない。

 最近は、先生といえども学外から研究費をいただく努力をゆめ
ゆめ怠ってはいけないのだそうだ。外部評価、競争原理の導入で
ある。基礎的な研究は世間の人からみると、「いいですねえ、夢
のような仕事ですねえ」となる。でも裏返せば、「現実にはとん
と役に立ちませんなあ」である。外国には基礎学問に理解を示す
財団がある。いくらシステムをまねても、日本ではお金を企業に
頼らざるをえない。企業にはそれなりの計算があるはずだ。しか
し、大学での研究の目的は利潤の追求ではない。

 学会が発行する学術雑誌の論文は、通常は複数のレフェリーの
厳しい審査を経る。もうその時点で専門家による「外部評価」を
受けているのだ。今しきりに言われている外部評価は、研究費と
直結しており、「高い評価=企業からの高額の研究費」を意味する
のでは? と危惧している。本来、基礎的な自然科学は人間の精
神活動により大きく貢献するものである。急激に解明されつつあ
る宇宙の様相がその好例であり、未知の銀河系外星雲が続々と発
見され、太陽系の惑星の微小な衛星の表面までが暴かれている。
その目的は、「ものしり博士」を育てることではなく、「自然にお
けるヒトとは何か」という人類の永遠の命題に連なるものである。
もちろん、これを考えなくても日常の生活はできる。連日連夜、
この命題に悩んでいる一般の人はまずいない。まして、企業に
とっては銭を産むネタではない。

 企業の求人担当者は、「バイテクやってます?」と必ず質問す
る。「いいえ、魚の分類です」と応えると、「?」という顔をする。
生き物が相手なら即バイテクという発想は悲しい。バイオテクノ
ロジーは花形産業だ。今は人間が生き物を創る。生命=遺伝子=
化学物質であり、ヒトの役に立つDNAをどこからか捜し出し、
切り張りする技術の競いあいである。この分野の先生方は、「4年
以上前の文献は不要」と豪語する。換言すれば、本人が5年前に
書いた論文はもう価値がない。論文の読み書きも英語だけでOK
だ。これだと、教える方も楽である。

 自然の事物、現象や概念は全て定義に基づいた呼称で理解され
る。だが、生き物はファジーである。いまだ、生、死、ヒトの定
義すら明確ではない。自然観や定義の変遷の理解は必須となる。
分類学では100年前の論文も当たり前、それが英語ならラッキー
だ。ドイツやフランスの文献はまだマシで、寒流や深海の魚では、
今は羽振りが悪いが、ロシアも頑張っている。今も昔も、学生は
楽をしたい。結局、分類学はチョウ古い、ネクラだと敬遠される。

 研究費を外部に依存せよとのあなた任せの提言は何とも哀しい。
大学の先生がきそって金太郎飴を作り、せっかく個性を尊重する
教育を受けてきた子たちが金太郎飴的になることを加速するだけ
だ。私は自然での生命の有り様にこだわっている。生物的自然は
地球が創った闇鍋だ。「誰だ! 具に蛙を入れた奴は」と驚き、
推理する楽しさがある。カエルの正体をDNAで暴くのも結構。
顔を眺めて名前を調べ、骨を調べて肉を食うのもまたよかろう。
個人の価値観の尊重こそ文化継承の鉄則である。

秋田県教育庁発行「教育時報」1999年1月号に掲載  

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