しばてんと自然環境
                      
 ニホンカワウソを捜しはじめてから十年が過ぎた。この動物の姿が映像に記録
されたのは、一九七九年の九月が最後である。その後、姿の確認はない。彼らは
国の特別天然記念物である。しかし、この動物の研究者は過去にいなかったし、
今後も育たないであろう。私は魚類を専門とし、最近はもっぱら分類学に従事し
ている。高知県の依頼でカワウソの調査を開始したが、この事実から分かるよう
に、野生獣の調査・研究は日本の動物学で最も遅れている部分といってよい。

 その姿は高知県須崎市の新荘川で撮影された。新荘川は葉山村に源を発し、須
崎市を貫流して野見湾にそそぐ。三十年ほど前は水が豊富だった。最近は取水が
いちじるしい。冬にはあちこちで流れが寸断し、川底が露出する。それでもこの
川筋からは、今でも細々とカワウソの目撃情報が寄せられている。彼らは川だけ
に依存するのではない。海の魚や海老や蟹も餌とする。海で潜水し、餌を獲った
後は真水で塩分を流し、毛を乾かす。これには草の茂みが必要となる。この上で
ころげ回るのだ。戦前、野見湾には軍艦が浮かんでいたという。海岸線は複雑で、
この湾が陥没によって形成されたことが容易に理解される。愛媛県の宇和島市か
ら御荘町にいたる海岸もリアス式であり、多数のカワウソが生息していた。韓国
の南に延々と続くリアス式海岸、特に、風光明媚な閑麗水道(ハンリョ スド)
一帯は、韓国のカワウソの最後の生息地のひとつと言っていい。たったこれだけ
の地理的条件なら、彼らが棲めそうな海岸は今の日本にいくらでもある。しかし、
現在の水域環境はやはり厳しすぎる。イタチ科の彼らは腸が短く、短時間で餌が
消化管を通過する。しかも、カワウソは体も大きく、運動量が豊富なため、多く
の餌を必要とする。したがって、さまざまな原因による河川と沿岸の動物の激減
は、彼らにとって致命的だったと考えられる。陸の環境や水の色の変化は眼につ
きやすい。しかし、私たちは今でも水中の動物に無関心だと言わねばならない。
日本人の食糧は輸入物がその多くを占めるようになった。海に面した高知市内で
さえ、店頭に並ぶ塩鯖は北海や大西洋のサバである。もっとも身近なはずの川魚
や地磯の魚は高嶺の花となった。香魚、すなわち鮎はその典型である。カワウソ
はアユを好んだという。アユは秋に河口付近で産卵し、一生を終える。孵化した
稚魚は海に下って成長し、やがて川を遡る。稚魚の生活は沿岸のプランクトンに
支えられ、プランクトンの量は森林を源とする有機物の量と密接に関係している。
陸の豊かな自然なしに川や沿岸の生物の多様性は維持できない。当然、その一要
素であるカワウソも生活を維持できない。

 万葉人はカワウソを「みつち」、すなわち水神とみなした。みつちは鮫龍とも
書く。川に棲む鮫龍となれば「恐ろしい」ことこの上ない。「かはをそ」の「を
そ」が「うそ」に転化したようだ。やがて、いつの頃からかカワウソは河童のモ
デルへと変身する。この民話の主人公はおおむね怖い存在であるが、愛嬌者でも
ある。人に悪戯をするがあえなく捕まり、説教されたお礼に川魚を人に届ける律
義さもある。河童にコンクリート護岸は似合わない。やはり、草の茂みから、皿
を乗せた顔をひょっこり出してほしい。土佐のカワウソ、すなわち河童は「えん
こう」とか「しばてん」と呼ばれていた。物の怪っぽい「えんこう」より、「し
ばてん」の呼称が可愛らしい。土佐には相撲好きが多い。しばてんも相撲が大好
きである。彼らが通りすがりのおじさんに相撲を挑むのは、決まって夕闇迫った
川岸である。しかし、護岸には道路がつきもの、道路には車と街灯がまたつきも
のである。

 川沿の、しばてんが棲める環境はほぼ消滅した。しかし、高知県の海岸部には
その可能性がかすかにある。野見湾の東、横浪半島の付け根に久通(くつ)の集
落がある。杉の植林に囲まれた標高ほぼ二百メートルの尾根から、車一台がやっ
との急坂が絶壁を走る。しかし、春は染井吉野が、秋は野路菊が道端をいろどる。
この海で、一九六三年にカワウソが魚網に絡まって溺死した。毛皮は須崎市教育
委員会にある。鼻の先から尾の先まで一メートル四十五センチ。見事な雄である。
土佐の山はあくまで深い。しかし、そのほとんどを覆うのは、今ちょうど伐採期
をむかえた植林の杉と桧である。森林の重要性が見直され、「森は海の恋人」を
スローガンに、広葉樹の植林や植林の手入れが進行しつつある。高知県も例外で
はない。刮目すべきは、この運動がかつて魚介類が豊富だった北国の漁村から始
まったことであろう。海と山は一体である。たとえ近い将来、ニホンカワウソの
終焉の地は高知県と記録されようと、しばてんが棲んでいた土佐の自然が甦るこ
とを期待したい。

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