『R君のこと』

 思いもよらず、新入生オリエンテーションで学生生活をいかに過ごすべきかのお説教をする立場になってしまった。

 私は昭和四十年、本学の旧文理学部理学科に入学した。理学科の学生定員は六十名。現在の理学部の一学科の定員にさえ及ばない。同級生は全国各地から集まっていた。これだけは今も変わりない。自らの学生生活でも、現在でも、全国津々浦々から集まってきた仲間と共に過ごせる事は何より嬉しい。だが、学生気質は確実に変わった。

 臨海実習は生物学を志す者にとって最も基本的な、また、最も楽しい実習である。私が学生の当時は、延々十日間の泊まり込みの実習だった。それでも皆が嬉々として参加した。相手は土佐の大自然。専門課程の難しい講義から解放され、生の生き物に触れられる。ただ、終わってからが悲劇である。レポートの提出期限は待ったなし。最近はぐっと減ったが、百枚を超える大作も珍しくなかった。このノルマが今の諸君には堪えられないようだ。臨海実習は彼らにとってしんどいイベントなのである。「同じ単位数なら」という訳だ。今は三泊四日と二泊三日の日程に分けたが、それでも半数が参加しないという情けない有り様となった。

 実は、シンドイのは教官である。海は磯さえも危険に充ちているが、全員に水の中を覗いて欲しい。そこには想像もつかない世界が広がっている。書物や映像での知識はあるだろうが、自分の眼で確かめることが自然科学の基本である。しかし、土佐湾の波は激しい。うっかり波を受けると体ごと岩に叩きつけられる。ウエットスーツ、手袋、マリンブーツは必需品だが、すべてを購入せよとは言えない。また、これらで武装しても、ウニの棘は遠慮なく突き刺さってくる。痛さをこらえつつ手に網を持ち、泳ぎながらせっせと動物を採集するのが教官の仕事となる。私もいい歳だし、これはなかなかの重労働だ。ふっと水から顔を出し、学生諸君は? と探せば、中にはおしゃべりと日なたぼっこに徹しているのも居るではないか。ついつい怒鳴りたくなるのだが、叱り方がこれまた難しい。親を含めて、身の回りの人から真剣に怒られた経験がほとんどないようだ。なぜ叱られたのかが理解できないのである。これは他大学でも大差がないようで、妙に安心する。

 野外実習が敬遠される理由はまだある。こちらの方がむしろ深刻なようだ。仲間と同じ部屋で、しかも三段ベッドで寝るのがイヤなのである。まして共同の風呂などとんでもない。「朝、シャワーが使えますか?」と尋ねられて絶句したこともある。十年ほど前なら、朝まで徹して駄弁ったり、こっそり酒を飲む豪傑もいた。就寝時刻は決められており、禁酒である。しかし、教官とて人の子。我が身をふり返りつつ、課題をきちんとこなせれば、見てみぬふりをすることもある。

 教官が水の中で悪戦苦闘したのは昔も同じである。海から戻ったら、まず教官が風呂で体を洗い、それから学生が入ったものだ。今は違う。教官は屋外の水道の蛇口を無言でひねり、ホースの冷水を頭からかぶって体を洗う。学生が風呂から上がったころを見計らって浴室に出向く。だが、浴槽の残り湯は数センチしかない。家庭のしつけなのか、社会全体の認識がそうなっていて私がズレているのか、いやはや深刻な問題である。

 今年の四月、I君が九州の大学の医学部に正式に採用された。彼が卒業したのは平成元年である。当時流行ったアメリカ映画の主人公であるボクサーのRの雰囲気を持っていた彼は、同級生からも、教官からもR君と呼ばれていた。長身で物静かな彼は、礼儀正しい学生だった。

 彼の事は忘れることができない。本州出身の彼は、臨海実習の開始直後、きれいな海に誘われ、岩から思いっきりダイブしたのであった。磯は危険だよとあれほど注意したのに…。学生の悲鳴に振り向くと、血だらけのR君が陸に上がっていた。胸から脚までウニの棘だらけ。実習を中断し、ただちに船で病院に運んでもらった。土佐の自然は想像もできないほど豊かである。海底一面にウニがへばりついている。私はこれに慣れっこになっていた。しかし、ガイダンスの不徹底は現場責任者である私の落ち度であり、彼を責めることはできない。彼は「痛い」とは一言も口にしなかった。「済みません。自分のせいで皆に迷惑をかけました」を繰り返した。

 彼は近畿圏のある大学の修士課程に進学した。これは意外だった。そこでは他の学生より一年多く学んだらしい。さらに別の大学の医系の博士課程に進学し、後にはさらに別の医学部の助手となった。だが、恒久的な身分ではなく、期限付きの助手と聞いた。この不安定な職種は、医学部では別に珍しくない。理系から医系に進学するのは稀ではない。しかし、別世界ともいえる学部で研究を継続することは、並大抵の努力と覚悟がないとできない。

 R君が卒業してもう十一年も経ってしまった。仲間の多くは職場の中堅であろう。R君には失礼だが、成績優秀だったとの記憶は残念ながら薄い。運動をしても目立つ存在ではなかった。ごくごく普通の学生だったように思う。私は学生諸君に「教官を追い越せ。それが君たちの義務であり、卒業研究がその第一歩。誰にでもチャンスがある」と常々語っている。ウチの施設や設備は充分とは言えないが、ずいぶんと整備された。教官数も桁違いに増え、指導の体制も整ったが、今や安・近・短のご時世である。「努力に勝る天才なし」は、もう死語かもしれない。しかし、どこの世界でも通用するR君の謙虚さと、黙々と努力を重ねる姿勢がきっと彼の飛躍を保証するに相違ない。

              (自然科学科教授,理学部学務委員長)
        *2000年度「高知大学理学部後援会だより」に掲載