『「高知にゾウ」に一考を』

 私は野生のゾウを見た経験もないし,研究している訳でもない.しかし,野生動物保護の立場から,ゾウを「連れてきてはいけない」と主張する.

 遠回りになるが,二つの例を藤原英司著「黄昏の序曲」から紹介する.白人が入植した1607年当時,北米には推定で6千万頭から7千万頭のバッファローが棲んでいた.悲劇は西部開拓に始まる.入植者は初め肉,皮,舌を利用していた.やがて皮と舌だけを,そして舌を取る目的だけで殺し続け,ついには列車の窓越しのライフルの標的とした.保護が開始された1907年にはわずか41頭が全てであった.

 もう一つは,全く同じ舞台のリョコウバトの悲劇である.犠牲となった鳥は数十億羽と推定されている.この鳥の群が空を翔ると辺りは薄暗くなり,気温の低下すら感じられたという.羽と肉を利用されていたこの鳥も,豚の餌となり,やがて鉄砲で撃つ娯楽の対象となった.最後の一羽は1914年に動物園で死亡した.

 さて,ゾウの輸出入にはワシントン条約の厳しい制約があり,輸入には繁殖可能な施設が必要である.しかし,ゾウを呼ぶことはバッファローとリョコウバトの悲劇の歴史での人間の行為と全く同一である.入植者の振る舞いを繰り返すことは許されない.ゾウは飼育下での繁殖が最も難しいといわれる.一部のサファリを除き,国内の出産記録はない.飼育舎の予定面積は全国の平均らしいが,例え最高でも繁殖を保障する根拠はない.繁殖の困難さはゾウの繁殖様式で説明される.ゾウの群は雌が中心で,雄は通常単独で放浪し,繁殖期のみ群と接する.雄の放浪はゾウがゾウとして生き残る,すなわち,近親交配を避ける手段である.ゾウの生態を無視し,雄と雌のペアならという短絡的な発想は非科学的である.

 繁殖可能なら外国産貴重種の飼育が許されるかは別の問題である.イギリス,ドイツ,オランダではヨーロッパカワウソの人工増殖を実施している.この計画は環境の改善を前提とし,将来放獣して人間との共存を目指している.地域の経済,工業,農業の発展をも見据えたこの計画はもはや動物園の仕事ではない.なぜ増殖を図るのか.アメリカはバッファローを,ヨーロッパの国々はカワウソを必要としているのである.野生動物は人間と共に文化の担い手であるという認識がここに存在する.相手国の文化の理解を欠く展望のない繁殖の試みは避けねばならない.外交の「副産物」として贈られたパンダの増殖には「先進国」日本の威信を賭けざるを得なかったが,「超一級」以外の動物はどうか.諸外国の非難がこれを証明している.

 南アジア,東南アジアの豊かな自然と文化の象徴であるアジアゾウは,相次ぐ開発で生息地を奪われ,緊急の保護が必要である.開発・援助の美名のもと日本人は無意識のうち立派な「入植者」のレベルに達している.高知市民が完璧な「入植者」になる必要はない.また,発情期の雄は最も危険である.現地でも動物園でも飼育の犠牲者は後を絶たない.生きたゾウはぬいぐるみの「ゾウさん」ではない.

 子供達の「ため」にゾウを呼ぶのは大人の我侭でしかない.檻の中のゾウが「死ぬために来た」と子供達が直感するであろうか.多くの子供達は動く姿にのみ短時間熱中するだけに違いない.高知に「ゾウさん」がいないのは少しも恥ずかしいことではない.むしろ,高知に「なぜ」ゾウさんがいないのかを誇りをもって教えるのが真の自然教育である.時代は変わったのだ.地球規模での野生動物の保護を考える時代なのだ.

        (1994年3月16日,高知新聞読者欄に掲載)