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2005年2月4日 高知新聞朝刊「所感雑感」

「海を渡ったツガニの標本」   町田吉彦

 三年前の秋、研究室に出入りし、四万十川水系の水質や動物、地質を研究していたクルト・ポーラネッツさんがお土産を大切そうに抱え、大野見村から戻ってきた。彼はオーストリア人である。「すごいのがいました」と、やや興奮ぎみである。いつもなら、彼の調査の収穫物は水生昆虫だが、クーラーボックスの中を覗いて驚いた。巨大な雄のモクズガニである。これほどのサイズは私の記憶にはなかった。
 モクズガニは高知県で一般にツガニと呼ばれている。親になるまで川の上流で生活し、秋に川を下り、内湾や河口で産卵する。孵化した幼生は、海でプランクトンの時期を過ごして河口に集り、春に遡上を開始する。県内の河口部では、地図上でかろうじて確認される程度の小規模河川でも、甲羅の幅が五ミリほどの稚ガニを四月から六月にかけて多数見かける。小河川の方が小動物の観察に適しているせいもあるが、彼らの姿は土佐の自然の豊かさそのものである。
 モクズガニは海産のカニよりはるかに味が濃厚である。茹でたてのカニも旨いが、「ツガニうどん」は郷土を代表する秋の味覚と私は思う。韓流のモクズガニの鍋は、カニの味がじっくりと野菜にしみ込み、これまた絶品である。
 クルトさんの巨大なモクズガニは我々の胃袋に収まったのではない。彼は、食用になるカニであることはもちろん知っていたが、その気はさらさらなかった。これまで見たことがないほどの見事なカニである。母国に送り、その後、ドイツのゼンケンベルグの博物館に届けるというのであった。この博物館は世界の甲殻類の研究拠点のひとつである。ヨーロッパには大英博物館、パリ博物館、オランダ国立自然史博物館をはじめとする有名な博物館がある。しかし、ゼンケンベルグの甲殻類のコレクションはこれらの機関の収集物を凌ぐ規模で知られている。
 過日、本紙で紹介されたが、室戸市在住の松沢圭資さんの甲殻類のコレクションがゼンケンベルグの博物館宛てに発送された。以前から、松沢コレクションが国外に出そうだとの噂は聞いていた。魚類を専門とする私が松沢さんに初めてお会いしたのは本年の一月十日である。個人の甲殻類のコレクションでは国内第一級のレベルである。もう少し早く松沢コレクションで勉強すべきだった。五五〇〇点の標本がドイツに渡ったとのこと。我が子を手放す心境であったと想像する。
 標本は分類学的な研究にのみ必要との認識が日本では強く、標本不要論を唱える生物学者がいるのには愕然とする。これは、明らかに誤りである。標本は自らの正体と産地の自然を語り、また、文化を語る物証である。異国の自然と文化を尊重する国外の最高の施設に文化財が渡ったのは、日本の現状を考えると、むしろ幸いだったのかもしれない。
 松沢コレクションに限らず、標本の国外流出が相次いでいる。もう明治の初期ではない。これが延々と続く文化国家はありえない。文化財は万人にとっての教材である。公的機関での管理、公開が不可欠なのだ。
 資源保護のため、「つがにあります」の看板が昨秋は激減した。しかし、資源の回復をもたらす力が土佐の自然にはありそうだ。あとは、郷土の自然と文化を学び、後世に伝え、尊重する姿勢と施設である。