1980年初代藤田幸利教授、近藤捷嘉助教授、川村(現谷村)八恵事務官の3人で教室のスタートを切りました。当時は附属病院もまだ建設中で、学生も3期生までの約300人しかおらず、それこそ何も無いところからのスタートでした。まだまだ卒業生がでるのは先の話で、医局の食器棚を買いに行くところから始まったと聞いています。講義が始まるのもずっと先の話で、日夜学生教育の為のカリキュラム、資料づくり、地元医師会との連携等々の日常業務をこなされていたとのことです。1981年泌尿器科学系統講義開始。同年10月附属病院開院、岡山大学泌尿器科学教室の全面的バックアップの基に、医局スタッフが揃い、診療開始しました。
1982年秋、臨床実習開始。1984年春、1期生卒業(国家試験全員合格の快挙!!)。卒業生4人(小倉(現山下)朱生、杉田 治、戦 泰和、山下元幸)が入局し、やっと自前の医局員の誕生となりました。その後、2期生、3期生と徐々にスタッフも増え始め、医局としても他大学に追いつけ追い越せと臨床、教育、実験に頑張りましたが、まだまだマンパワーでもかなわず、地の利も無く、学会発表一つとっても、岡山地方会に出席するために片道5時間の移動をしていました。(瀬戸大橋、高速道路開通はずっと先の話です。)小さいながらも医局員同士仲良く、助け合いながら、医局を運営し、1986年秋には、第38回日本泌尿器科学会西日本総会を開催し、小さい医局でも何とか頑張っているぞ、というところを示しました。その後医局員も増え、順調に医局の活動も拡がって行きましたが、1995年春藤田教授の逝去に伴い、1995年秋には第2代執印太郎教授が就任され、医局の内容もガラリと変貌しました。執印教授にカルチャーショックを受け、世界と対抗できる医局へとの変貌を余儀なくされました。それまでは、どちらかというとノンビリした田舎の医局から、時代の最先端の遺伝子関連の研究にともなう臨床、研究へと医局体制もシフトしました。今日では大学の危機、旧体制の打破、独立行政法人化等々叫ばれていますが、執印教授は先見の明があるというか、その危機感が当時から強く、医局員は知らず、知らず生き残りをかけて世界に目が向けられる様になっておりました。
簡単に医局の歴史を振り返りましたが、旧帝大等と比べる小さな大学の医局です。しかし高知大学腎泌尿器制御学教室は、初代藤田教授の人を診るclassical urologistとしての臨床、教育、研究を行った医局から、現在は時代の最先端に通じるfuture urologistまでを育成する医局へとまだまだ成長を続けています。