公開日 2012年7月31日
2011年11月30日。
エミレーツ航空317便、関空発、ドバイ国際空港経由、ローマフィウミチーノ空港行き。
これが僕のイタリア生活へのチケットであった。
なぜ僕がイタリアに行くことになったのか。それはとてもささいで不思議なきっかけだった。ちなみに石橋はたたいても渡らないくらい臆病な僕。どちらかと言えば人に渡らせてから渡る人間である。その僕が、海外に挑戦したいと思ったのは、本山町で行われた防災に関する国際ワークショップに参加したことだった。そこで初めて、留学先であるイタリアサッサリ大学のパオラ・リッツィ先生と出会った。
センター試験の英語は3カ月だけの勉強。単語だけ覚えてやり過ごした。高校時代、英会話の授業はまともに聞かず、英語のテストもなんとか赤点にならないくらいの勉強しかしてこなかった。その僕が、ワークショップで突然英語で意見を言わなければならない環境に身を置かれたのである。
一応、しゃべった。
本当に簡単な英単語がぽろぽろとこぼれおちてくるといったところである。「I think that…」とか聞いた事のあるフレーズを使って一生懸命にしゃべってみた。結果的に振り替えれば、あれは僕にとって貴重な経験だったのかもしれない。簡単な単語でも人に伝わる。伝えられる。もっと伝えたい。そう思った。
この経験は、楽しかった。なぜだろう。たぶんそれは僕にとって高知大学での生活がどこか窮屈さを感じるものだったから。僕は大学1年生の頃から、毎日曜日、日曜市に通い続けている。日曜市の活性化を考え学生団体を立ち上げた。3年間1日も休むことなく、朝から晩まで日曜市でボランティア活動を行いながら仲間たちと過ごしてきた。ただ僕は好きなことをしているだけなのに、大学案内のパンフレットに何年も出させてもらったり、プレゼンを依頼されたり…、嬉しいことなのだが少しちやほやされてきた。でもいつからかそんなのは自己満足で何も面白くないと感じるようになっていた。
そんな時、ある先生から国際学会に参加してみないかという声をかけてもらった。日曜市での活動の中から湧いてきた疑問を研究するのは楽しかった。自分の一生懸命書いたものに対して先生からダメだしされ、それに対してまた考える。面白い。そう思った。韓国テグで行われたIaps2011という学会にポスターセッションではあったのだが、審査を通過し参加することが出来た。もちろんほとんど英語はしゃべれないし、質問されても答えるのは非常に難しかった。でもこの経験は僕に世界を意識させた。
いろいろともやもやしたものを持っていた僕。この機会に溜めていたものが一気にはじけたのかもしれない。僕はこのワークショップのあと、パオラ先生に向かって、「I want to go to Sassari. Please give me a chance to study in your University.」 とカタコトの英語で、でもはっきりと勉強しに行きたいと口にした。ヨーロッパのローカルマーケットの研究をしてみたいと強く思ったから。
それからは一瞬で事が決まっていった。まさか本当に行けるとは思っていなかった。だからこそ「行きたい」なんて口にできたのかもしれない。先生たちのお力添えの結果、日本学生支援機構の奨学金もとることができたこともあり、僕の留学は3カ月という期間に決定した。
長い。
今までひとり暮らしなんかしたことはない。ご飯はレトルトのものしか作れない。英語はしゃべれない。イタリア語はさっぱり。そんな不安だらけの中、出発の日だけは刻々と迫ってきたのである。
僕の初めて踏んだヨーロッパの地。ローマの街は少し湿ったにおいがして、どこか動物園のような感じのする空気だった。一歩ターミナルから外に出ると目の前では血だらけになりながらおっさんたちが殴り合いのケンカをしていたのだ。僕はこの恐ろしい街の中で3カ月過ごすのか…と一抹の不安が心をよぎっていた。
その後、10日ほどイタリアに滞在することになっていた先生たちとフィウミチーノ空港で合流し、またすぐにワークショップの行われるカリアリへと飛び立ったのだった。
こんな風に、僕の3カ月はスタートしたのだった。
(第2章へ続く)
人文学部4年 浅川直也
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