医薬品汚染や薬剤耐性菌など新たな水環境の脅威に立ち向かう:高知大学農林海洋科学部・大学院総合人間自然科学研究科農林海洋科学専攻
高知大学農林海洋科学部・大学院総合人間自然科学研究科農林海洋科学専攻

研究紹介
持続可能な未来に向けて、農林海洋科学分野の研究が果たす役割は多岐に渡ります。
高知大学では多くの個性的な教員が、地の利を活かし世界に貢献できる様々な研究活動を行っています。

特集記事−Feature Article

SX―地球社会のサステナビリティに挑む ー海・川・土壌の環境保全の現場から

 河 川

医薬品汚染や薬剤耐性菌など新たな水環境の脅威に立ち向かう

井原 賢

[専門領域] 環境毒性学、環境工学
[研究テーマ]
●微量汚染化学物質による生態系影響の解明
●⽔環境中の微⽣物の起源解析
●感染症対策のための下水から得られる感染症情報の活用(下水疫学)

時代とともに変化する水環境のリスク

水は、私たちの暮らしや産業と密接かつ相互に影響しあっています。
水環境をめぐる問題を振り返ると、戦後、経済復興が最優先された時代は、重化学工業の産業廃水などによる水質汚染、いわゆる“公害”がその最たるものでした。深刻な公害病が社会問題となり、水質基準などの法律が整備されました。その後1970~1980年代になると湖沼や海でプランクトンが大量発生する富栄養化や、水道水を塩素消毒する過程で発生するトリハロメタンなどの発がん性物質が問題になり、それらは“環境問題”として認識されるようになりました。
1990年代に入ると、今度は海外でオスなのに卵巣のある魚が発見され、環境ホルモン(内分泌かく乱物質)が水域生態系を破壊するとして大きな問題になりました。調べていくと、工業用プラスチックを生産する時に使う化学物質の一部や農薬の一部に生物のホルモン作用をかく乱する働きがあることがわかりましたが、他にも実は女性ホルモンを含む医薬品など、人に由来する化学物質の影響もあることがわかったのです。
そして、2000年代に入ると、下水や河川水での医薬品の検出報告が世界中で急増しました。
これが何を意味するのか、皆さんは気づかれたでしょうか? 実は、水質汚染の主原因が、時代とともに工場排水などに代表される経済活動から、生活排水という人の日常生活に由来するものへシフトしたことが示されているのです。

現代の水環境での水質の諸問題

医薬品による水環境汚染の実態は?

私たちは日々様々な医薬品を服用しています。それらは体から排泄され、下水を通して水環境に入っていきます。その時、下水処理場でしっかりと処理され取り除くことができる医薬品物質ももちろんありますが、処理しきれないものも出てきます。
河川水の医薬品汚染が騒がれはじめた2000年頃にイギリスの科学ジャーナルNatureに掲載された風刺画が有名です。風刺画の中で医師が患者さんにこう言っています。「この薬を一日三回飲みなさい。もしくは、その辺の水を飲んだらいいですよ」。それくらい水環境が医薬品成分に汚染されているという強烈な風刺です。
下水処理場で取り切れなかった化学物質は、河川や湖沼などの水系に放出され、魚などの水生生物が長期間その化学物質に暴露されると、様々な悪影響が懸念されます。そこで私たちの研究室では、特に神経系に作用するタイプの医薬品に焦点をあて、これらの医薬品物質が水生生物へ与える影響について研究を行っています。

 

河川の医薬品の汚染濃度と魚の異常行動を解析

医薬品の多くは、細胞内で特定の受容体に作用して効果を発揮します。日本の水環境でよく検出されているのは、胃薬や糖尿病の治療薬、高血圧の治療薬、アレルギー薬などですが、これらはGタンパク連結型受容体(G protein coupled receptor: GPCR)を標的とした医薬品です。また、近年処方が増えている抗うつ剤は、セロトニントランスポーター(Serotonin Transporter: SERT)を標的とした医薬品です。GPCRやSERTはどちらも人間だけでなく様々な生物が持っており、環境中に放出されると多くの生き物が影響を受けてしまいます。

 

私たちの研究室では、水環境中の汚染医薬品の濃度を調べるため、GPCR標的薬の濃度を算出できる培養細胞試験(in vitro試験)に取り組み、世界で初めて河川水や下水に適用することに成功しました。また、SERT標的薬の試験についても、同じく世界で初めて下水に適用することに成功しています。
さらに、医薬品物質がどのくらいの濃度で魚の異常行動を引き起こすのかについても、実験を行っています。異常行動の例としては、産卵数の減少や外敵から身を守る行動をとらない、餌を取らないなどで、放っておくと生態系の破壊にもなりかねません。こちらは長崎大学のグループと共同で進めているところです。
この2つの研究成果を組み合わせることで、将来的には河川ごとに医薬品汚染の状況が危険か安全かを判定することができるようになります。また、下水処理における医薬品物質の削減基準も提案することが可能です。

 

 

薬剤耐性菌の脅威に備える

2016年に出された「抗菌薬耐性に関するレビュー」の報告書では、世界中で少なくとも70万人の人が薬剤耐性菌によって死亡しており、2050年にはそれが1,000万人まで拡大するというショッキングな推計が発表されました。WHOやG7の健康保健大臣会合においても抗菌薬耐性は大きな脅威として取り上げられ、対策が進められていますが、実はここでカギとなるのが水環境です。
 薬剤耐性に対しては、「ワンヘルス(One health)」――人の健康を守るためには動物や環境にも目を配って取り組む必要があるという概念があります。抗菌薬は人間だけではなく、畜産業、水産業、農業など幅広い産業分野で用いられており、そこから環境中に流出した薬剤耐性菌への対策が欠かせないからです。
しかしながら日本にはこの分野の研究者がまだ少なく、研究が遅れています。特に西日本、四国や九州などにおいては、これまで環境中の薬剤耐性菌の調査データはほとんど蓄積されていませんでした。
そこで、私たちの研究室では、2年前から高知の浦戸湾周辺河川17地点における薬剤耐性菌の調査に取り組んでいます。調べているのは、アンピシリン、テトラサイクリン、レボフロキサシンの3種類の抗生物質に耐性がある大腸菌です。結果として、高知県の環境中においてもこれらの薬剤耐性大腸菌が検出されており、健康リスクがあることが明らかになっています。この研究は、今後も自治体などと協力しながら継続的なモニタリングを続けていく予定です。

水環境の汚染リスクは、雨の日に増大する?!

浦戸湾周辺河川における水質調査においては、薬剤耐性菌だけでなく、一般的な大腸菌についても汚染の程度を定期的に調査しています。その中で、私たちは大腸菌数検出のある“法則”に気がつきました。それは、サンプルを採水した時の天気です。晴天時と降雨時では、降雨時の方が明らかに菌数が多いのです。
そこで、研究室の学生が1時間おきに連続採水をして評価を行った結果、菌数の増減には一定の波があり、それが海の潮位と連動していることがわかりました。
海の潮の満ち引きは川の水位に影響します。雨の日には満潮時、河川の水位が上がった時に大腸菌数が増加し、晴れた日は逆に満潮時に大腸菌数が減少していました。これは何を示唆しているのでしょうか?
実は、降雨時の下水処理場では、水量が増加して下水があふれるのを防ぐため、やむを得ず簡易的な処理だけをして下水を放流しています。この簡易処理放流によって雨の日は大腸菌などの微生物が海まで流出し、その汚濁された海水が河川の水質に影響している可能性が考えられるのです。農地からの菌の流出なども原因の可能性があります。

河川での採水の様子

 

 

2020東京五輪・パラ五輪では、東京湾のトライアスロンが行われる海域での事前の調査で基準値を超える大腸菌群が検出され問題になりました。この時は、海に汚水の流入を防ぐ対策がなされたことと、会期中好天に恵まれたことで基準値をクリアできました。しかし過去には、欧州で降雨後に大腸菌群数が増加している状況でトライアスロン競技が行われ、多くの体調不良者を出したこともあります。
降雨時の簡易処理放水は、今の日本の下水システム上は避けられないものです。日本だけでなく欧米でも問題となっています。では雨の日でもあふれないよう下水処理能力を上げればよいのかというと、人口減少でむしろコスト削減が議論される中、そう簡単にはいきません。今後の持続可能な対策を考えていくことが重要です。

下水から得られる情報を感染症対策に応用

ここまでは水環境に潜む健康リスクに関する研究を紹介してきましたが、下水にはもうひとつ、“逆転の発想”で人の健康に寄与する方向性を持った研究分野があります。
それが、「下水疫学」です。下水には人から排泄された糞尿が含まれており、その下水中のウイルス濃度を調べることで、感染症などの流行の状況をいち早くとらえることが可能です。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の大流行時、感染は主にPCR検査で確認・把握していましたが、病院に行かない人や無症状の人、また検査キットが手に入らない時期もあり、正確な感染者数が把握しきれていないことが指摘されていました。しかし、無症状の人であっても感染していれば身体から必ずウイルスを排泄します。下水を調査することで、正確な感染状況を把握できるということなのです。
この下水疫学は諸外国ではかなり進んでおり、イスラエルではこんな成功例があります。
イスラエルは国土が狭く、感染症が流行するとすぐに国中に蔓延してしまうため、かなりの予算をかけて下水中のウイルスなどを調査しています。2013年、撲滅されたと言われていたポリオ(脊髄性小児麻痺)のウイルスが下水中から検出されました。その時、まだ医療機関からの報告が入る前だったのですが、政府は急きょ国民全員に経口生ワクチンの接種を行うと決め、感染拡大を防ぐことに成功しました。最初に下水中のポリオウイルスが発見されてから感染終息まで約半年という、非常にスピーディな公衆衛生対応が実現したのです。

河川での採水の様子

COVID-19流行時の2022年、高知県でも実は下水のデータを取り、発表された感染状況との相関関係を検証する実験を行っていました。これは内閣府の実証事業として我々高知大学が県や民間企業と一緒に行ったもので、非常によい結果が出ました。
今後、COVID-19のように新たな感染症が世界中で大流行を起こす可能性があります。下水モニターは、その有効な防疫手段として大きな注目が集まっており、アメリカでは全人口の7割をカバーする数の下水処理場で毎週データを取り、サイトで情報公開しています。EUでも加盟国に下水モニターを指示しています。
日本では残念ながら、まだ国主導の動きにはなっておらず、一部の自治体が予算を組んで取り組んでいる状況です。私が長年関わってきた滋賀県大津市のほか、大分市、札幌市、石川県小松市などでは、下水の検査情報を活かして市民に感染症の警報やお知らせを出したりしています。また近年は、危険性が極めて高い感染症だけでなく、暮らしに身近な、例えば手足口病やヘルパンギーナなどの感染症にも活用が広がっています。

日本の水環境を守り、サステナブルな社会実現に貢献

日本は豊かな水に恵まれ、上下水道の普及率も高く、水環境は安全だと多くの人が思っているかもしれません。でも果たして本当にそうでしょうか?
例えば、日本の下水処理における大腸菌数の基準値は諸外国と比べるとかなり緩くなっています。全国に清流と呼ばれる河川はたくさんありますが、その中でも大腸菌数が基準値以下に保たれている川は10%ほどしかありません。
また、技術の進歩が著しい近年、新しい化学物質は世界中で毎年、数万種類、数十万種類といったレベルでどんどん出てきています。それらの流出を防ぐ下水処理技術の開発や、新たな安全基準値の検討・規制など、水環境をめぐる課題はより複雑化・高度化しています。
水環境や人の健康を守る研究は、持続可能な社会に必要不可欠であるだけでなく、研究者が少ないことから、誰もやっていないことや誰にも発見されていないことに出会えるという面白さがあります。人と環境の共生に興味のある人や、新しい挑戦をしたい人など、若い人材にぜひこの分野に入ってきてもらいたいと思っています。